チアノーゼ

 

 

雨が降っている。


さあー、と、軽い音が絶える事なく地面で鳴っている。
あの絶え間ない音は、水道から来る水やシャワーに似ている気がする、ふとそんな事を思った。
どこまでも終わらない音に、人工も自然もないのではないか。
目に入れれば異なる存在だが、耳を澄ませている分にはどちらも変わりない。



ただ雨は、自分の意志で止める事は出来ないから。


やはり彼等は別々の生き物だった。

ぬるい浴槽に浸かりながらそう、


思った。




地の守護聖となっていくらか時間は過ぎているのに、ヴィクトールの軍隊時代の傷が消えないのをオスカーは不思議に思っていた。
美しい筋肉を裂く様に走る大きな傷跡達を見ればそれは確かに彼に恋している身としては興奮したが、二の腕にあるナイフで切った様な切り傷はいつ見ても他より鮮やかな気がして、なんだか怖かった。
この傷はお前に惚れているのだな、いつまでたっても離れやしない、そのくらいの軽口でさらっと聞いてしまえば良いのに、何故かそれも出来なかった。
愛しく思っている人間の身体だ、心配しない訳はないが。
オスカーにはそれができなかった。
それに、完治しきらず身体に残る赤い傷跡はヴィクトールによく似合っていて。
そこにくちづけたらきっと素敵だろう、想像しただけでもうっとりする。
傷の事を聞いてしまったら其処にくちづける事はもう出来ないのではないだろうか、などと。
消えない傷の心配よりそんな事を考えてしまう自分がいて、呆れて溜め息が出た。

だが、心配している、それはそれで本当のことだ。
近いうち館へ行ったついでに聞いてみようとオスカーは心の内で決めた。



通い慣れた屋敷の扉に行くと、補佐がどうぞ中へ、と勧めてきた。
ここへ来るのはいつからか習慣になったが、補佐や他の人間は自分達を酒飲み仲間だと思っているに違いなく、なんだかそれが可笑しかった。
自分の主人が目の前の男にいつも抱かれていると知ったら彼はどんな顔をするのだろう。
その様を思い描いてすこし笑いながら、室内へ進みヴィクトールの元へと足を向ける。

寒々と広く、飾られる事のない部屋を開けると其処に主の姿は無く、いつも存在している静物だけがただいつもの様にそこに居た。



勝敗の決まっていないチェス盤。

飲みかけの濃い珈琲。

カーテンの開かれた窓。

書類と羽ペンの載った机。

青い硝子瓶。

銀のペーパーナイフ。

倒れたクイーンの駒。

濃紺のインクケース。

伏せられた写真立て。

黒の万年筆。

雨音。




―――雨?





違う、これは水の音だ。
聞こえるのは隣から。
オスカーは部屋の脇に備えつけてあるバスルームへ向かった。
ざあざあと、絶え間なく水音がこだまする。
シャワーが出しっ放しだというのは分かるが、それにしてもバスルーム特有の湿気も暖かさもない。
もしかしてここにもいないのかと思ったが、シャワーカーテンに見覚えのある影が映っているからやはり其処に居る事に間違いはないのだろう。


終わらない、聞こえる、雨音のようなシャワー。
跳ねる飛沫。
一体何をしているのか。
オスカーは何故だか急に不安になり、浴槽に歩み寄ってカーテンを開けた。







「………………!!?」





「…オスカー、さま」



「なに、を…してるんだ」

「見て分かりませんか…?腕を、」
「言うな!」


「御自分で聞かれた癖に言うな、なんて我儘な方だ。…いつもの事ですけど」


なんだ、なんなのだ。
オスカーは訳が分からなかった。
冷水のシャワーを出しっ放しにして裸でそれを浴びて、ナイフで自分の二の腕を―――


呆然と見ていると、ヴィクトールはまたナイフを腕にあてた。
ぐ、と力が籠もり、また新しい血が滲み出す。
はっとして、その手を叩く。
からん、と金属が床に落ちた。



「…何を、してるんだ」

「腕を切ってました」

「そんなのは見れば分かる!なんだってこんな事をしてるんだ、自分で自分を痛めつけるなんて!
それに第一、何故そんなに冷静でいられるんだ!」




言っている事の矛盾も気にせず一気にまくしたてても、ヴィクトールは変わらず落ち着いた瞳をしている。
その至極冷静な、自分を見つめてくる目に耐え切れず視線を反らすと、今まで切っていたのだろう二の腕から血が流れているのが見えた。
不謹慎な想像を働かせた美しい筋肉を裂く赤い傷口はやはり艶めかしかったけれど、それ以上に心が痛かった。
どうして。
どうしてこんな。
言いたい事は沢山ある筈なのに何をどう言って良いか分からなくなったオスカーは、唇を噛み締めることしかできない。
何時の間にか涙も浮かんできたらしく、頬が濡れているのを感じた。
つらくて目を閉じると、いとしい大きな節くれだった指で目の縁を軽く擦られる。




「ああ、ごめんなさい。
どうか泣かないで下さい」

「…お前がそれを止めたら泣き止んでやる」



こんなに強い男が自傷に走るなど、余程の事情がある筈だ。
オスカーはそれが聞きたかった。
これから長く聖地で暮らしていくのに何か嫌で耐えられない事があるなら、それが何であろうと出来る限り取り払ってやりたかった。
俯いて答えを待っていると、静かに声が聞こえた。
何の感情も含んでいないような、静かな声。
どこか、もう手に入らないたいせつな何かを再び手にすることをを諦めたような。



「…此処は良い香りに溢れてますね」


「天気の良い日には、甘ったるい菓子と紅茶を勧められて皆馬鹿みたいに楽しそうにして」


「あんまり平和で、まともな考えなんて何処かに行きそうだ」


「あそこではまだ」




「誰かが、死に続けてるのに。
俺はこんな所で何をしてるんですかね」


こんな、硝煙の匂いなんかひとつもしない場所で。




「………!
それは…、」

「分かってます、誰も悪くない。
でも俺は、俺一人だけ此処に居る事がたまに――――耐えられなくなるんです。
でも俺は此処に召されてしまった身だから。
だから―――」




「…もう良い喋るな…!」





誰にも言う事のなかった、言えなかった思いをついに吐き出して泣きだした、傷ついた恋人をオスカーは抱き締めた。
ああ馬鹿が、そんな事はお前が考えなくても良いのに。
オスカーはせつなくなって、また泣きそうになった。
もう既に涙は滲みかけていたけれど。



「優しすぎるんだよ、お前は…」


やっとそれだけ呟いて、冷えた身体をつよく抱き締めた。
まわした腕に、あざやかな、泣けないかわりに流し続けてきた赤い涙がべっとりと、助けを求めるように絡み付く。

死ぬ事の出来ない身体、
立場、
亡くなっていった仲間、
まだ生きている自分、
戦場、
唾を吐きたくなる程穏やかで平和で美しいこの場所、
その差、
少しずつ傷つける事で死ねる訳ではないけれどそうでもしないと気が狂ってしまいそうだというある種脅迫のようなそれ。




ああ、そんなもの、そんなもの全て流れてしまえばいいのに。
涙と共に。
その抱えきれない辛さを奪えればいいのに。

とうていそんなことは、ずっと此処で生きてきたオスカーにできるものではなかった。
死んだ数多の兵士の人生など、瞬きをする間になくなっているのだ。
それを頭の隅にも置かず、ただ流れる年月に身を任せ生きてきた者にはその資格すら与えられない。
きっと優しいその人はいつまでも心の中に悲しみを溜めてしまうのだろう。
いつか血も涙も流さなくて済むように、その悲しみを少しずつ救って―――掬っていければ良いのだけれど。




オスカーはその時、排水溝に流れていく血液を見ながら初めて聖地を憎んだ。

20150324

20150419

歌姫庭園出ます

カットは夏樹+やよいだけど

どうなるかな